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東京地方裁判所 昭和29年(行)107号 判決 1958年5月19日

原告 喜安善市

右代理人弁護士 遠矢良己

被告 東京都練馬区長 須田操

右指定代理人 三谷清

島田信次

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

≪省略≫

理由

原告が昭和二十九年八月十二日被告の機関である練馬区役所石神井支所関出張所長に原告の氏のローマ字で表示した印鑑を登録のために届出たところ、その受理を拒否されたことは当事者間に争がない。

原告の右届出当時施行されていた昭和二十三年二月十九日都条例第二十号東京都印鑑条例(以下単に旧印鑑条例という)には、昭和三十一年五月二十五日制定同年七月一日施行の東京都練馬区条例第六号東京都練馬区印鑑条例(以下単に新印鑑条例という)第八条のような規定は存しなかつたので、ゴム印や三文判のような照合困難と認められる印鑑(旧印鑑条例第十条第一項)をのぞいては、届出人の印鑑であることが認識できる程度に表示された印鑑であれば、その登録を拒否できなかつたのである。そして現下の我が国におけるローマ字の普及の状態からみると、ローマ字による人の氏名の表示は、日本文字による表示と同様に社会生活において通用するものと考えられ、成立に争ない甲第一号証によると原告主張のローマ字で刻した印鑑は届出人の印鑑であることを充分認識できるものであり、又原告使用のローマ字の印鑑が日本文字の印鑑と比較して特に偽造、変造が容易であつたり、照合が困難であるとは解せられないから、原告の印鑑がローマ字で表示されているとの理由でその届出を拒否することはできなかつたものというべきである。

しかし東京都内における印鑑事務に関しては昭和三十一年四月一日東京都条例第三十号「特別区の行う印鑑登録及び印鑑証明事務の調整に関する条例」(以下単に調整条例という)により旧印鑑条例は廃止され、新印鑑条例が制定されたのであるが、調整条例第八条第一号には、戸籍簿または住民票に記載されている氏名、氏、名または氏及び名の一部を組合せたものであらわされていないもの(名については漢字、平かな又は片かなに替えられているものを除く)による印鑑は登録することができないと規定し、戸籍簿または住民票に記載されている文字以外で表示された印鑑は登録できないこととしたから、ローマ字で表示された印鑑は右規定によつて登録することができなくなつたのである。原告は右改正条例の規定は戸籍簿又は住民票に記載されている氏名を表示している印鑑であることを要するとしたにすぎないのであつて、それらに記載されているのと同一の「文字」を刻した印鑑でなければならないことまでも定めたものではないから、ローマ字で氏を刻した印鑑の登録を禁止したものではないと主張するけれども、右規定の括弧内の文言に徴するときは、右の見解は独自の見解というほかなく、到底採用することができない。

ところで前記のように被告が印鑑登録を拒否した後その事務に関する法令の改廃があつた場合において、どの法令によつて右拒否処分の適否を判断すべきであるかは一つの問題であるが、印鑑の登録は、法律行為をする際に当事者の同一性の証明の資料として通常用いられる印鑑証明書を発行するため、市区町村長において登録簿に住民の印鑑を登載するものであるから、前記拒否処分によつて、原告は右印鑑証明という公けの制度が利用できないという状態が続くことになるが、(このために本訴は抗告訴訟の対象となるのである)新たに権利義務に変動を生ずるという性質のものではない。従つて原告は本訴においては右拒否処分の取消を求めているのであるけれども、その取消だけではそれ程の意味がないのであつて、終局の目的は印鑑の登録を求め、印鑑証明制度を利用することになるのである。そうだとすると、被告のした拒否処分の適否(原告の利用請求権の存否)は口頭弁論終結時を基準としてその時に効力を有する法令によつて判断するのが事理に適すると考える。けだし本件のように処分時に適用された法令によれば拒否処分は違法であるが、その後の法令によれば適法であるという場合に、前の法令に基いて判断し、違法として拒否処分を取消しても、原告は登録を求めることができないし、被告もまたその判決によつて登録することは不可能であるからである。

そして新印鑑条例によればローマ字であらわされた印鑑で登録できないものであることは前記のとおりであるから、結局被告のした本件印鑑登録の拒否処分は違法といえないのであつて、原告の請求は理由がなく、棄却すべきであり、訴訟費用の負担について行政事件訴訟特例法第一条、民事訴訟法第八十九条を適用し主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 石田哲一 裁判官 地京武人 井関浩)

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